▼インカ帝国(Wikipedia)
◆インカ帝国は、南アメリカ大陸で高度な文明を築いた大帝国でしたが、残念なことに世界史ではほとんど扱われません。
インカ帝国=キープを使う=車輪・鉄器なし=ピサロに滅ぼされる、と機械的に暗記したという人も多いのではないでしょうか。
広大な領域と栄えた期間の割に、インカ帝国が世界史に取り上げられない理由のひとつは、文字がないことです。
歴史とは、そもそも文字に記された過去の情報を、現代の視点から再構築するという営みです。
なので、ほんの1000年前のことでも文字を持たなかったインカ帝国について学ぶためには多分に考古学に頼らなくてはならないのです。
◆しかし、インカ帝国についての文字資料はないわけではありません。
クロニスタ(cronista)と呼ばれる年代記作者による記録です。
年代記のことを英語でクロニクル(chronicle)といいますよね、同じ語源です。
クロニスタは、南米にやってきたスペイン人や、彼らと現地人の混血の人々で、インカ帝国の歴史の伝承者や各地の言い伝えなどをまとめて記録しました。
現在、インカ帝国に関する研究はクロニスタの記録と考古学の両輪で進められているわけです。
クロニスタの資料から見えるインカ帝国の姿をみていきましょう。
まずは国名。私たちは簡単にインカ帝国と呼びますが、これはあくまでヨーロッパ人がつけた名前。
インカとはアンデス地帯の一部族の名前で、この部族が後に侵略・拡大の結果帝国をつくりあげました。
▼インカ帝国の拡大(Wikipedia)
現地の人々は帝国を「タワンチン・スウユ」(四つの地方の意味)と読んでいました。
各スウユは首都クスコを中心にほぼ東西南北に走る線によって区切られる。
つまり、クスコは全てのスウユの接する点にあったわけです。
各スウユは皇帝の親族を長官として、さらにいくつかの県・郡とも呼べる行政単位に分けられ、その最も小さい単位がアイユウでした。
◆アイユウは、インカ帝国で暮らすほとんどの人(農民)の生活単位でした。
農民は、アイユウで生まれ、同じアイユウの人と結婚し、アイユウの中で死にました。
土地やそこから取れる全てのものはアイユウの共有物とされました。
アイユウの土地は、太陽(神)の土地、皇帝の土地がまず割り当てられ、残った土地は家族の人数に従い農民に分配されます。
成人男子は太陽の土地、皇帝の土地の後に自分の土地を耕し、時たま鉱山や軍隊、灌漑や道路・施設の建築のための賦役(ミタ)を課せられました。
▼農作業の風景(Wikipedia)
しかし、全ての農民が自分のアイユウで一生を終えたわけではありません。
健康で容姿端麗な10歳前後の少年少女が帝国の仕事のために徴用されることがありました。
男はヤナコーナと呼ばれ、皇帝の所有物となり、従者、賦役の監督官、神殿の下働き、職人となりました。
つまり、農業以外で帝国に必要な仕事を担ったわけです。
また、ヤナコーナは功績として皇帝から武将や貴族に与えられることもありました。
奴隷に近い存在でしたが、主人との関係は温情的で、クラカと呼ばれる下級の地方役人や貴族に転身する者もいました。
奴隷的だけれど、偉くもなれたというあたり、エジプトのマムルークやトルコのイェニチェリに似ていますね。
女性の場合は、アクヤクーナ(アクリャコーナ)と呼ばれ、まず尼僧院で紡織・料理の仕方の教育を受け、皇帝や貴族の側室となりました。
彼女たちの中から生贄が選ばれることもあったようです。
また、側室にならなかったものは、太陽の処女として神殿に残り神官を補佐しました。
タワンチン・スウユで暮らした庶民は、多くが農民として一生を終えました。
その中の一部がヤナコーナやアクヤクーナになりました。
生活は保障され、出世の道もあるけれど、住み慣れたアイユウを離れざるを得なかった人々の心境はどんなものだったのか…。想像するしかありません。
◆参考:泉靖一 著『インカ帝国―砂漠と高山の文明』1959、岩波新書